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F40の出生

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F40は如何にして誕生したのか、先のBlogで、レースに出られる市販車という、エンツォ・フェラーリの理念を具現化したスポーツカーと書いたが、果たして真実なのか? 今週末、同乗させていただくこともあって、私見ではあるが、当時の状況を踏まえて、出生について勝手に紐解いて見た(笑) 当時のフェラーリにおけるモータースポーツは、F-1が主体、後のWECとなる当時のスポーツカーレースにおいては、親会社フィアットの意向もあって、ランチアにエンジンを貸与、グループCであるLC2にて闘っていた。 F40を開発して、敢えてスポーツカーレースに参入するのは、どう考えても不自然。 エンツォが目論んだのは、サーキットにおけるスポーツカーレースではなく、ラリーフィールド、それもWRCだったのではと、考えるのが順当で妥当ではないだろうか? 現にF40のエンジンはLC2のデチェーン版、重複は有り得ない。

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では何故、ラリーフィールドなのか?
1976年にデビューした308、早々とグループ4のホモロゲーションを取得、主にERCへ参戦を開始した。 当時のフェラーリは、親会社であるフィアットから制約やF-1で忙しかったため、ラリー用308のチューニングは、社外のミケロットへ委託、ミケロットの手によるチューンド308は、プライベーターによってターマックを中心に参戦、中でもFRCがターマック主体だったので、数多く参戦している。 戦績と言えば、1981年のIRCにおいて、タルガフローリオに優勝、そして1981ERCのシーズン2位を獲得、翌1982年にはWRCツール・ド・コルスにおいても2位入賞を果たすほど強かった。 その後、ミケロットからフェラーリ自社チューンへ、実質的にはセミ・ワークス体制となった。 そして、1982年のIRCにおいて、名門ラリークラブであるジョリークラブからエントリー、IRCチャンピオンを獲得した。 しかし、全戦を308で戦った訳ではなく、シーズン後半の2戦は、テスト投入されたランチア・ラリー 037で参戦、内1戦のサンマリノ・ラリーにおいて037は初優勝を挙げて、IRCチャンピオンが決まったという内幕があった。 ところが、シーズン途中に308から037 へチェンジしたことに、エンツォが激怒、報復として前述のランチアLC2へのエンジン供給を止めるとまで言い放ったという。

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の後、308は、1983年からのGr.A/B規定に合致させるため、4バルブ化や軽量化他を図ってグループBのホモロゲーションを取得したが、時代は 4WDの新世代ラリーカーへと移行、残念ながら、まったく歯が立たなかった。
これらの経緯から考えると、実は、ラリーフィールドにおける308の好成績に気を良くしたエンツォは、そのポテンシャルを更に高めて、レースに出られる市販車ではなく、WRCで勝てるマシンの開発を命じたのではと思えて来る。 パッケージはランチア・ラリー037と同様、エンジンをS4からV8、スーパーチャージャーからツインターボとしたが、時代は、すでに4WD+ミッドシップ+ターボへ移行、時流に遅れたパッケージとなった288GTOは、すでにWRCでは通用しないのは明白、ターゲットとしたレースカテゴリーを失ったのでは?
 
次に、当時のWRCにおける規格の変遷や環境を述べると、1982年、FISA1993年まで存在したモータースポーツの国際統括組織。現在は国際自動車連盟FIAに吸収されている)は、第二次オイルショックによるWRCへの参戦する車両台数の減少に歯止めを掛けるべく、従来のグループ4(連続する24か月間に400生産された車両)の規格を見直し、より参戦しやすくなるように、ホモロゲーション取得のための生産台数を半分以下にした新規格グループB(連続する12か月間に200製造された車両、またWRC参戦する車両となるエボリューションモデル20台をラリーカーとして認める)への移行を決定した。 参戦を目論むメーカーの負担を大幅に軽減した新規格グループBにより、数多くのメーカーがWRCへと参戦、WRCは、再び隆盛を極めることになった。 グループ4時代においても、ランチア・ストラトス等のラリー専用マシンが投入されたWRCだけあって、当初から、エボリューションモデルを投入、様々な型破りのマシンが登場、最終的には、1トンを切るボディに500ps超のエンジンを搭載、4WD+ミッドシップ+ターボはスタンダードというWRCになってしまった。 FISAは、速くなり過ぎたグループBを危惧、もはや市販車と異なる完全な別物、限りなくプロトタイプスポーツカーに近い車両で競うには、あまりにも危険なので、新しくプロトタイプマシンを規格して競技させた方が安全と判断、新規格グループSへと移行させる計画を練っていた。
そんな矢先の1986年、開幕戦ラリー・モンテカルロで圧倒的な勝利を挙げたランチアのトイヴォネンは、ツール・ド・コルスへと臨むこととなる。 首位でレグ1を終えたトイヴォネンは、「このラリーは、全ては上手くいっているのに何かおかしい。問題が起きたら、きっと死ぬだろう。」と、自らの運命を暗示するかのような言葉を残し、52日、レグ2SS18のコルテ-タベルナ、スタートから7km付近の左カーブで、トイヴォネンがドライブするランチア・デルタS4はコースオフ、そのまま崖下へ転落、車体側面に木の幹が貫く状態となり、炎上する。 後続のプジョー・205ターボ16をドライブするブルーノ・サビーとランチアのチームメイトであるミキ・ビアシオンは、車を停めて、ふたりの救助に向かい、また、それぞれのコ・ドライバーが必死に救援を求めるも、周囲は鬱蒼とした木々で覆われて、脱出は不可能に近く、加えて、マグネシウムホイールやケブラー樹脂とプラスチックで覆われたデルタS4は瞬時にして焼け落ち、レスキューが駆けつけた頃には、すでにパイプフレームとサスペンションの骨格だけを残し全焼してしまった。 ヘンリ・トイヴォネンと、この年からコ・ドライバーとなったセルジオ・クレストは、共に帰らぬ人となった。
ちなみに、このランチア・デルタS4は、外観を市販車に似せたエボリューションモデル、車体は完全に専用設計、名前こそデルタと呼んだが、その中身はチューブラーフレームにミッドシップエンジンと、市販車のデルタとは全く異なった設計、過激なエンジンチューニングでパワーウェイトレシオ2kg/ps以下となり、プロ・ラリードライバーでも乗りこなすことが難しいと言われたラリーカーだった。 トイヴォネンは、名ラリードライバーであるマルク・アレンをもってして、このデルタS4を乗りこなせる唯一のドライバーと言わしめたほどの名手でもあった、合掌。

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1985
年のベッテガの死亡事故、アルゼンチン・ラリーでのアリ・バタネンの重傷事故、1986年のラリー・ポルトガルにおける、ヨアキム・サントスによる多数の観客を巻き込んだ死傷事故があっても、グループB廃止論は表沙汰にはならなかったが、このトイヴォネンとクレストの死という事態を受けて、FISAは緊急会議を開催、僅か2日という異例の早さで、以後のグループBのホモロゲーション申請を却下、1986年をもって、WRCにおけるグループBカテゴリーの廃止を決定した。 その結果、1987年以降、WRCは、下位のカテゴリーであるグループAへと移行することになった。 この規格の変遷からも、生まれながらのグループBである288GTOの活躍の場を失った事が分かる。
 
これらの状況や経緯を包括的に考え、時系列にて列記すると、以下の通り。
 
エンツォ・フェラーリは、当時、親会社フィアットの制約もあってF-1に集中、スポーツカーレースにも挑みたいが、これまた親会社の意向でグループ会社のランチアへ、エンジンだけを貸与するに留まっていた。
そんな折、新型V8エンジンを搭載した308のラリーフィールドにおける好成績に目が留まった。
308ERCにてシリーズ2位、IRCにいたってはチャンピオンシップを獲得、しかし内1勝が037とケチが付いた。
037で勝てるなら、308037と同じようなパッケージを作れば、WRCに勝てるかも知れない。
早速、WRCに打って出ようと開発はしたモノの、パッケージは、もはや時代遅れ。
当時のフェラーリには、高度な4WD技術は無かった。
一応、開発が終了したモノのWRCにおける規格が、グループAに変更となってしまった。
そんな折、フェラーリ40周年といった節目と重なった。
せっかく開発したのだから、フェラーリ40周年を祝うマイルストーンとして、レースに出られる市販車といった触れ込みで、288GTOF40となって登場した。
 
これが本当だったら、正確にはレースに出られる実力を備えた市販車が正しい言い回しかも知れない(汗) これは、あくまで仮説の話、しかし、あのエンツォ・フェラーリが、レースに出ないレーシングカーを開発するのだろうか?
 
勝手な仮説を述べたが、すべて戯言、梅雨の暇潰しとして、どうか浅学をお許しいただきたい(大汗)


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