夏季休暇後に受診した人間ドック、心配していた結果が届き、ドキドキしながら開封すると、結果は、またしても良好、実に不思議だ(苦笑) 健康を喜ぶのは当然であるが、ホントに大丈夫なのか?もっと詳しく診断した方が良いのでは?と返って疑りたくなってしまう(汗) しかし油断するなかれ、やはり自制しなくては。
さて過日、社用にて安城市へと出掛けた折、とある整備工場のショールームが目に留まった。 社用車を緊急停車させてUターン、呆れるコヤジを尻目にお邪魔すると、どうぞ!と快い対応、早速、店内へと入ると、展示されていたのは初代パブリカUP20のコンバーチブル、それも99台しか生産されなかったデタッチャッタブル・トップを備えた稀少なモデルだった。 デタッチャブルトップとは着脱式のルーフ、要はメルセデス・ベンツのSLと同じ、コンバーチブルモデルに取り外し可能なハードトップを装着したモデルである。
パブリカとは、トヨタにより、当時の通商産業省(現経済産業省)の国民車構想に基づき設計・生産された一般大衆車。 車名であるパブリカは、一般公募による命名、パブリック・カーの造語であり、国民車に相応しい名であるとされた。 1955年の当時、前述の通り、通産省が立案した国民車構想なる政策があった。 これは、一定の条件を満たす「国民車」の生産を、国が支援するモノであり、言うなれば、日本版フォルクスワーゲン計画、マスコミのスクープにより、構想は明らかになったが、公式な政策とはならなかった。
では通産省が構想した国民車の性能とは、
- 最高時速100km以上。
- 乗車定員4名、または2名と100kg以上の貨物が積めること。
- 平らな道路で、時速60kmのとき、1Lの燃料で30km以上走れること。
- 大がかりな修理をしなくても、10万km以上走れること。
- 月産2,000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下でなければならない。
- 性能と価格から勘案されるエンジンの排気量は350~500cc、車重は400kg以下。
これらは、大学教授などの助言も受けて、自動車好きの若手官僚が立案したプランであったが、当時の自動車メーカーは、実現には技術やコストの両面から困難が多く、現実味を欠くドリームプランという見方だった。 それでも、この構想に刺激された、いくつかのメーカーは小型車の開発に着手。 トヨタも、構想をそのまま実現するまでは思っていなかったが、技術開発の見地から、1956年7月より、自社最小クラスである1,000ccより更に小さな車の開発に着手、このような背景、経緯があって、パブリカが誕生した。
当初はシトロエン2CVに倣ったFFとして、試作車も完成したが、駆動系にはトラブルが続出して廃案、平凡なFRへ変更となった。 また当時、500cc車には、税制上の優遇措置が設けられるといった噂が流布したが、既に高速道路の建設が始まり、高速化時代は間近とあって、500ccでは如何にも非力、多少アップさせて700ccとして、100km/h走行が可能なクルマとして、開発が始まった。
完成した初代パブリカUP10は軽量なモノコックボディを採用、全長3,500mm のボディは2ドアセダン、小さいながらも独立したトランクがある3ボックス、2,130mm しかないホイールベースに大人4名を詰め込むが、当時は軽乗用車より余裕があった。 FRとなり、プロペラシャフトが重量増となったが、軽量化に徹した結果、当初、FFで想定された580 kgに収まった。 サスは、前輪がダブルウィッシュボーン、後輪がリーフ・リジッド。 新開発されたエンジンは697 ccの強制空冷の水平対向2気筒OHV、ボア&ストロークは78㎜×73㎜のオーバースクエア、出力は28ps/4,300rpm、最大トルクは5.4kg-m/2,800 rpmで、最高速度110km/hを達成した。
1966年に大規模なマイナーチェンジ、排気量は800ccに拡大、36psとなった2U-C型エンジン、フロントノーズやリアデッキのデザインが変更となり、ほぼフルモデルチェンジに近い変更を行った。 コンバーチブルモデルには、ヨタハチことスポーツ800と同じツインキャブ45psの2U型エンジンが搭載、型式もUP20となった。 このコンバーチブルモデルに、専用のハードトップを装着して販売されたのが、整備工場に展示されたデタチャッタブルモデルである。 すでに不動車となって久しいそうであるが、ボディのコンディションがイイので、起こそうと思えば、意外とカンタンかも知れない。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

この工場には他にもお宝がザクザク、ロータスエランS4に2CV、Eタイプのシリーズ1、ヒーレースプライト、ディムラーダブルシックスのシューティングワゴン、ロータスヨーロッパ・ツインカム、イセッタと素晴らしいラインナップ!
霜降りのスウェットにジーンズ姿のご店主は、齢75になられるご老人、かつては伊藤忠オートの協力工場でもあったそうでアルファロメオ他イタ車は元より、英国車、フランス車、アメ車と、すべて手掛けたと述べていた。 またオークションにおける落札価格にも詳しく、なるほど、テーブルには洋書のクラシック&スポーツカーがさり気なく置かれていた。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

気になったのは、ショールームに展示された、もう一台はW201。 お客様からお預かりしているとの事であるが、このW201、2.3-16であるが、ヤナセ卸しのディーラー車でありながら5MT、距離はすでに22万キロを超えているが、シートには破れも、ヘタリもなく、その感触は硬質そのもの、ドアの開閉もかつて経験した、あのドッシリとした感じ、剛性の衰えなど微塵も感じなかった。 センターコンソールには、昔懐かしいTechnicsのカセットプレーヤー、こちらも使用感などなく、まるで新品のよう、あゝ・・さすが気合の入った頃のメルセデスと感心。 久しぶりに間近で観るW201、アレ!こんなに大きかったかな?と、記憶より、数段大きく感じた。
このW201のオーナーは、ご店主の旧い友人で、あのタキ・レーシングが所有していたポルシェカレラ6を譲り受けて、レース参戦していた方とあった。 またタキ・レーシングのカレラ6は、白から赤へとなっていたとも。 ネットで調べて見ると、タキ・レーシング解散後、あのカレラ6は高野光正選手の手に渡り、津々見友彦選手と共に、チュードル・レーシングとしてレースに参戦、確かにカレラ6は赤く塗り替えられた。 そして1968年の全日本富士1000km耐久自動車レースで、チュードル・レーシングのレッドをまとったカレラ6は、高野光正/米山二郎組により8位/78台、同年の鈴鹿1000キロ自動車レースでも同じペアで2位/50台を獲得した。 以上を踏まえて考えると、ご店主の友人でW201のオーナーとは往年のレーサー高野光正さんとなる。
ご店主に預かった経緯を尋ねると、オーナーが、所有するクルマが多くてガレージに入り切れず、乗る頻度の少ないW201が退場となったと述べられた。 帰りのアクアの中でため息、22万キロを走破して、今尚、ヤレがないメルセデス、今でも、購入する価値は充分にあると。 果たして一体いくらでお譲りいただけるのか?と思案していると、横からコヤジが、また良からぬ事を考えているのでしょう!とニヤニヤ、思わず図星!と苦笑いとなった。